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「釣れない」という名の、あまりに静かな暴力を乗り越える方法について

こころ
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気の持ちようで変わることもある。
(パンダ談)

あのね、聞いて。
心の話なんだけど。

釣りに行って、もしも何も釣れなかった時も。
そこに魚はいなかったのだと自分を正当化するのです。

大海原という名の巨大な水たまりに、僕は今日も釣り糸を垂らしているます。
周囲の釣り人たちが銀色の鱗をピチピチと跳ねさせて、生命の輝きをバケツに詰め込んでいるのを、僕は笹をかじるような無機質な目で見守るます。

僕の浮きは、まるで死後硬直を起こしたかのようにピクリとも動かない。
海という地球の表面の約7割を占める広大なスープの中に、僕が欲している一匹の魚も存在しないということか。
そう、僕が糸を垂らしたその垂直な線上において、その海域において、宇宙の真理として「魚は一匹もいなかった」という証明が完了したわけだぱん。

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これは負け惜しみではなく、純粋な観測結果なのです。
「釣れない」という事実は僕が無能なのではなく、僕の選んだ座標に生命が欠如していたという自然界のバグのようなもの。
たとえそこが世界有数の漁場であろうと、僕の前でだけは砂漠と化すます。
そう思うと、自分が一種の神聖な結界を張っているような孤高の存在に思えてきて、少しだけ胸を張りたい気持ちになるます。

誰にも邪魔されず、誰の期待にも応えず、ただ虚無を釣り上げる贅沢。
大漁に沸く隣の家族の笑い声が少しだけ鼓膜を刺すけれど、彼らは「釣れた」という結果に支配された奴隷に過ぎないのます。
釣果ゼロという完全なる自由を手に入れた僕は、誰よりも気高く、そして誰よりも夕飯のおかずに困っている存在となるます。

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結局のところ僕たちは「持っていないもの」を数えるのが大好きで、手の中に何もない状態を耐えがたい恐怖だと感じるます。
でも、空っぽのバケツはそれだけ軽くて持ち運びが楽ちんだということに気づいたとき、人生の半分くらいをどうでもよく思えるはずであるます。
高尚な精神性を気取って、なにひとつ得られなかった1日を正当化する。
そんな自分を鏡で見たとき、あまりに情けなくて、ちょっとだけ口の端が歪むます。

ちなみに深海には「ボウズカジカ」という、まるで僕の釣果を予言しているような名前の魚がいるだぱん。
彼らはゼラチン質のぶよぶよした体で餌が来るのをただじっと待っているだけの、やる気のない生き物だぱん。
自然界では「努力」なんていう概念は効率よく捕食するための単なる筋肉の収縮に過ぎないし、運が悪ければそのまま餓死するのがこの世界の冷酷なルールだぱん。
無駄なポジティブシンキングは、絶望までの時間を少しだけ引き延ばすためのただの麻酔だぱんね。

君のバケツの中も本当は僕と同じくらい空っぽで、冷たい風が吹き抜けているんでしょう?
西の空が、古い傷口のような色に染まっているます。

しらんけど。


砂漠化した防波堤で、僕が隠し持っていた予備のちくわを食べる?
ここから先は、僕が海に投げ捨てたはずの「本当の呪詛」のお話。

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